食パンの元祖 ヨコハマベーカリー宇千喜商店
1900年代の広告
(開港資料館蔵より、人名録より)
以下の文章は、3代目社長 打木吉則の手記を転記したものです。
歴史家でない為、文章の不備、間違え等ご指摘のある場合は、お手数ですが
E-mail: info@uchikipan.com まで、ご連絡いただけるとありがたいです。
パンの元祖とは以下の通りである。
時 期 | 種 類 | 始 祖 | 店 名 | 場 所 |
---|---|---|---|---|
1842 | 兵糧パン (ビスケット) |
江川太郎左衛門 | 伊豆韮山 | |
1862 | 大型型焼食パン | ロバートクラーク | ヨコハマベーカリー | 横浜市中区山下町129 |
1866 | フランスパン | 内海各蔵 | 冨田屋 | 横浜市中区北仲通1丁目 |
1869 | あんぱん | 木村安衛兵 | 木村屋 | 東京 銀座 |
1901 | クリームパン | 相馬愛蔵 | 中村屋 | 東京 銀座 |
2010年9月30日 ご指摘いただきました。
上記の種類別に記したものより
現代のパン食文化の発祥地との視点からみると
日本人のパン屋の元祖は 1860年 内海兵吉パン製造開始説 が正しい。
参考文献:
横浜開港資料館『横浜もののはじめ考』斎藤多喜夫著「パン」(1988年)(P50~51)
内海孝著『横浜開港と境域文化』(2007年)の「内海兵吉の横浜開港とパン製造業」(P6~29)
読売新聞横浜版 宮本俊一「開港場物語」(2007年9月23日)
少年の頭上に「喜千宇」の看板が見える(開港資料館所蔵)
パンの本流は大型イギリス風山型及び角型食パンであり、その日本の元祖はイギリス人クラークのヨコハマベーカリーでありその衣鉢をひきつぐものはヨコハマベーカリー宇千喜商店であり現在のウチキパン株式会社である。
この食パンの発祥地が横浜だと言うことは、横浜が現代のパン食文化の発祥地だと言うことでもある。開港の1859年から明治元年1868年までの9年間に、横浜に渡来して正式に居留手続きをとった外国人は298人で以下の通りである。
イギリス人 | 193人 |
アメリカ人 | 51人 |
オランダ人 | 19人 |
フランス人 | 16人 |
ドイツ、スイス、ポルトガル | 若干名 |
これが外人居留地制度が撤廃された明治32年1899年には、3000家族約7000人になっていた。この他に出船入船の船員や旅行者、外国籍の東洋人、イギリスやフランスの駐屯兵も横浜に常駐していた。
そうなると当然のことながら外人の常食として一日も欠くことのできないパンを売る商売も必要となってきた。現在のウチキパンの前身である日本の食パンの元祖ヨコハマベーカリーの経営者ロバートクラークがイギリスから横浜にやって来たのは文久2年1862年である。当時はイギリスとアメリカが有力でフランスはまだ頭角をあらわしていなかった。
従ってこのような点から、横浜では先ず優位に立ったのがイギリスパンであり、その経営に乗り出したのがヨコハマベーカリーのクラークである。当時横浜にあったパン屋は下の4店であり、いずれも外人経営者で居留地の山下町にあった。
ヨコハマベーカリー | パン専門店 | イギリス人 |
レンクロフォード | 食料品、雑貨兼業 | アメリカ人 |
デンティース | 下宿屋兼業 | イタリア人 |
パルメス | 不明 | イタリア人 |
パルメス、レンクロフォード共に明治30年頃廃業。やがてデンティースもヨコハマベーカリーに凌駕され廃業。3軒の異人ベーカリーがヨコハマベーカリーを抜くことが出来なかったのは相当の理由があった。
第1の理由
明治政府が日本の近代化を促進するために雇い入れた外国人の大多数がイギリス人だったことである。これらのイギリス人が全てメシを食べないでパン食生活を続けた関係上イギリス風の大型型焼食パンが自然に勢いを得た。
第2の理由
大型型焼食パンがおいしかったことである。このパンは舶来の上等粉でないと絶対作れない。当時の日本人はパンを一種の珍奇食品扱いにしていたのだから、どうせ食べるなら上等のものがよいとなる。また当時の日本人はパンの肉質だけを食べて皮部を捨てると言う食べ方をした。従って品質の劣る国産小麦でも造ることが出来る小型でかつお節型のフランスパンは火がよく通るため皮部が厚いから日本人の嗜好に会わないことになる。
第3の理由
日英貿易の成長発展に日本政府の親英政策が加わり、イギリス国籍のロバートクラークのヨコハマベーカリーが同業中のピカいちとして地歩をかためやすかったことである。
第4の理由
徳川幕府はフランスの指導援助によって軍を近代化したが明治新政府がイギリスによる事に決めた事である。軍は兵食としてパン食を採用することになるが、海軍の場合港がある横浜にパンを発注することになる。そして、イギリスの軍事教官によって指導されるのだから英国人のロバートクラークのヨコハマベーカリーが優位を占めることにならざるを得ない。
これで分かるように横浜がパンの本場でありヨコハマベーカリーが横浜を代表するイギリスパンの総本山であったのである。パンは発酵により造られる。現在は空気中から人工的に純粋に培養したイースト菌を使用するが、当時は各パン屋がその店独特の技術で編み出したパン種をもとに空気中の乳酸菌によりできた乳酸を作用させて造られた。
乳酸は発酵に有害な他の雑菌をおさえ発酵を促進するのであるが、乳酸が強すぎるとできたパンが酸っぱくて食べられない。これをおさえ美味なパンを造るのに必要なのがビールの製造に欠かせないホップである。ホップを用いて造るパン種はロバートクラークが本国より持ってきたものでホップを持っているヨコハマベーカリーの技術の秘密は注目の的だったのである。
イギリス人のダブリュウコウブランドが山手の天沼に明治5年1872年にビール醸造所をつくった。後のキリンビールである。ビールは他につくるものがないため競争相手のできる心配がないのでビール会社はパン屋が望むままにホップをわけた。
かくて他のパン屋もホップを用いたパン種を使えるようになったが、各パン屋は独特の努力で造り出したパン種の秘密を外部に漏らすことを極端に警戒した。それだけに種造りの奥義を盗むための努力は精力的に競争相手により続けられたのである。ウチキパンの初代 打木彦太郎は、横浜市南区中村町の大地主の倅であったが文明開化の時勢に乗り遅れないようにと、明治11年(1878年)14歳の時、ヨコハマベーカリーにパン見習工として住み込んだ。
彦太郎は入社するとすぐ技術を覚える機会が与えられたわけではない。ヨコハマベーカリーの技術者として一人前になるのは実に大変なことだったのである。一生懸命につとめ、十年経ち、やっと、ロバートクラークの片腕と頼まれる技術者となったのである。
日本におけるイギリスパンの開祖クラークがヨコハマベーカリーの暖簾を若干24歳の青年彦太郎に譲り引退したのは、明治21年(1888年)の正月であった。彦太郎はヨコハマベーカリーの店のあった山下町から、堀を隔てた元町1-50に店を開業したのが同年3月である。現在もウチキパン株式会社本社の所在地である。
横浜第一、いや日本一のヨコハマベーカリーの暖簾を傷つけてはならないという大きな責任を背負わされたのだから、彦太郎の気苦労と努力は想像を絶するものだったと思われる。彼は誠実と技術をモットーとして、一歩一歩、地を固めていった。
彦太郎の時代になってからのヨコハマベーカリーで造っていたパンはクラーク直伝のイギリス型食パン、フランスパン、ブラウンブレッド、グラハムブレッド、バターロール、グロー(フランスの軍隊ようで一個の目方が1.5㎏もあり一人に一日分として渡した)等であったが、本命はやはりイギリス型の山形食パンであった。ホップ種の生地を石釜で焼いた食パンくらい美味しいものはない。
ところが此のホップ種でおいしい食パンを焼くということは大変難しいことだった。明治時代のパンを一般人はスパンと呼んだという話があるが、それは当時のぱんがいかに不出来な酸っぱいものが多かったかを物語るものである。
同業者が増えるにつれ彦太郎はヨコハマベーカリーと横浜ベーカリーと混同され易いので適当な機会に屋号を改訂したいと考えた。が、クラークが25年間に亘って築き上げたヨコハマベーカリーの屋号に対する信頼感が予想以上に大きいので下手に改名するとマイナスになると考えヨコハマベーカリー宇千喜商店という和洋折衷の屋号にしたのが明治32年である。
この頃のヨコハマベーカリー宇千喜商店のお客様は、居留地の外国人、外国の軍艦船舶、鎌倉、大磯及び東京方面の外国人やホテル等が主なところだった。当時東洋一を誇っていた精養軒なども宇千喜商店のパンを愛用していた。日清日露の戦争の時、陸軍の御用商人となり、特に日露戦争の時は軍納の乾パン製造を一手に引き受けた。